小さな花たち

旅先や日々の生活で見過ごされそうなひとときを、思いのままに綴ります

Spirit of Love (愛のスピリット)

80年代にShattered Dreams が大ヒットしたイギリスのバンド、Johnny Hates Jazz. 私は、80年代の洋楽が大好きだが、このバンドは特別好きだ。曲の雰囲気や、ボーカルのクラーク・ダッチェラーの声、その英語の発音が、これぞ、イギリス!という感じに聞こえるのだ(あくまでも個人的な印象)。当時は日本でもかなり人気があったので、バンド名を聞いたことがなくても、どこかで流れているのを聞いたことがある人もいるに違いない。

当時の曲で、私が好きな曲の一つに、I Don’t Want to Be a Hero(直訳すると、「私はヒーローにはなりたくない」)がある。最初、ヒーローになりたい(I Want to Be a Hero)と歌っているもの、と思いこんで聴いていたので(普通、ヒーローになりたいと歌うだろう、という偏見から)、後にその全く逆の意味だったことを知り、驚いたものだ。歌詞は、強い反戦感情を持ち、不当な戦争への参加に疑問を抱く兵士の視点から書かれたもの。邦訳のタイトルでは、「反逆のヒーロー」と表現されている。ただ、当時の私は、歌詞の内容よりも、曲の雰囲気そのものが好きだった。

シンガーソングライターであるクラーク・ダッチェラーは、こういった社会的なテーマに対するメッセージを、軽快なリズムの曲にのせて、何気なく歌う。最近、たまたまYouTubeでSpirit of Loveという曲を聴いた。2020年にリリースされたものだが、今この瞬間の世界に向けてのメッセージにも聞こえるのは私だけだろうか。あまり有名な曲にはなっていないが、はてなブログでこの曲を取り上げているサイトを見つけたので、歌詞を引用させていただく(一部抜粋。下に和訳あり)。

Can you hear the crying
Of a world in so much pain?
I look up to the heavens
But nothing seems to change
I want to feel there’s something more
to life than all this hate and war

What the World is waiting for
What the World is waiting for

It’s the Spirit Of Love that we need now
It’s the Spirit Of Love

Far too many suffer
In a world consumed by greed
While others show no mercy
To justify their creed
But there’s a time I’m dreaming of
When all of us can live on love

It’s a world worth fighting for
It’s a world worth fighting for

It’s the Spirit Of Love that we need now
It’s the Spirit Of Love

Is the Spirit, the Spirit Of Love
What this world is crying out for

More love, more love
That’s what we need now
The Spirit Of Love

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たくさんの痛みに満ちた世界の
泣き叫ぶ声が聞こえるか?
天国を見上げても
何も変わるようには見えない
こんな憎しみや戦争などより
もっと人生に何かがあることを
僕は感じたい

世界が待っているのは
世界が待っているのは

それは愛のスピリット 僕らが今必要な
それは愛のスピリット

強欲に消費された世界で
あまりにたくさんの人が苦しんでいる
自分の信条を正当化するために
誰も慈悲を示さないんだ
だけど、僕らが夢見る時代がある
僕らすべてが愛の元に生きることのできる時が

世界が待っているのは
世界が待っているのは
それは愛のスピリット 僕らが今必要な
それは愛のスピリット

それは愛のスピリットなんだ
世界が泣き叫んで求めているものは

もっと愛を、もっと愛を
それが僕たちに今必要なもの
愛のスピリット

(出典「Spirit of Love」ジョニー・ヘイツ・ジャズ(2020) - まいにちポップス(My Niche Pops)

歌詞だけ読むと、重たい、暗い雰囲気の曲に思えるかもしれないが、実際の曲は、軽いポップ調で、「愛」がテーマだけに、ミュージックビデオは優しいイメージであふれている。最後に、広島の原爆ドームを後にするクラーク・ダッチェラーの重い表情が私たちに何かを問いかけるような余韻を残して終わるのが印象的だ。
(下にYouTubeのリンクをつけておきました。もしよろしければ、見てみてください)

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・現在、ガザで起きている戦争について考えることを、前回のブログ「空を見上げて思うこと」で綴っています。あわせてお読みいただけたら嬉しいです。

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空を見上げて思うこと

午前中、せわしなく用事を済ませ、午後の眼科の予約時間まで1時間もなく、テラス席でパンをかきこんでいたときのこと。ふと空を見上げて思う。(あ~、いい天気だなあ、緑がきれいだなあ)。ところがなぜか次の瞬間、思考は全く違った方向へ。(そういえば、広島で原爆が投下された日も快晴だったという。例えば、今、投下されたら、上に見えているテラスの屋根も、生い茂る緑も、その後ろに見える高層ビルも一瞬で吹き飛んでしまう。あっという間に、この色鮮やかな景色は、暗いモノトーン1色になるはず。そういった過去の犠牲のもとに、今日のこの青い空が守られているんだな)。さらに思考は続く。(しかし、この青い空をずっとずっとたどって行ったら、今まさに戦時下のウクライナやガザにつながっていく。この青い澄んだ秋の空は、途中からどんどん色が変わっていって、やがて爆撃の煙や地上から舞い上がるがれきの粉塵などで灰色となった空につながるのか…)。

先日のテレビのニュース番組。アメリカでパレスチナを支持するデモに参加していた12歳の少女が、泣きわめきながら、カメラに向かって叫んでいた。「私と同じような年の子供たちが殺されてしまっているの!」。この年齢で、遠く離れた国で起きている惨事が、家族や親しい友だちの身にふりかかっているかのように考えられるなんて…。自分が12歳だったとき、すでにパレスチナイスラエルの問題は存在していた。しかし、問題の存在どころか、パレスチナイスラエルがどこにあるのかすら、知らなかったのではないか…。

今の時代は、あらゆるメディアで、たとえ戦争をしている国であっても、現地から生の映像が送られてくる。私たちは、まるで自らが戦時下にあるかのように、メディアを通して現状を知ることができる。本来なら、自ら体験しているかのように臨場感をもって伝えられるから、戦時下の人たちの気持ちに寄り添いやすくなった時代と考えるべきなのだろうが、私たちの関心は、過去から進化しているだろうか。今は映像があまりにも溢れすぎていて、メディアを通して戦争を「見る」ことに慣れてしまっていないだろうか。

2014年のイスラエル軍によるガザ侵攻時、私は日本にあるNGO団体で働いていた。人道支援を行っている団体とはいえ、今すぐ空爆を止めて人々を助けに行くことなどできず、できることは、現地の状況をより多くの人に伝えることぐらいだった。当時、私の感触では、メディアを含め、関心を持ってくれる人は少なかった。「日本から遠いところで、いつも紛争や衝突が起きている場所」といったイメージで捉えられがちだったように思う。だから、現状を伝えただけでは不十分だと思い、私は悩んでいた。どうしたら、すぐ近くで起きていることのように、自分の愛する家族や親友に起きていることのように感じてもらえるのか。

そこで注目したのは、毎日、メールで送られてきていた現地スタッフの日記だ。彼は、NGO職員としてガザで働いていたが、彼の日記はすごく個人的なものだった。仕事のことはほとんど書かれていず、空爆下での停電の中、息子がろうそくの明かりで勉強するのを見守った、というような、現地の日常を綴ったものである。私はこの日記を、日本の団体のHPにアップし始めることにした。ある意味で、それはかなり勇気のいることだった。彼は空爆下で日記を書き続けている。明日、この日記が途絶えることもあり得る。私たちは、それを見届けなければならないのか…。しかし、毎日送られてくる日記は、彼の心の叫びだ。これを聞き流すわけにはいかない…。そういう思いで、思い切ってアップし続けることを決断したのだ。

すると、あるとき、それがメディアの目にとまり、ヤフージャパンのトップページのニュースとして、取り上げられた。あっという間に、団体HPのアクセス数が激増した。これまで、「遠い国でいつも起きていること」と思われがちだったテーマに、関心が寄せられたことが手にとるようにわかった瞬間だった。このブログと同じように、日記はとても個人的なものだ。彼はNGO職員としてではなく、愛する家族をもつ一人の父親として日記を書いた。父親として、空爆におびえる息子の恐怖や不安を取り除くこともできず、ただ抱きしめてあげることしかできないやるせない気持ち。親としてわが子を守ることを約束できないふがいなさ。そういった思いが、多くの人の心に届き、自分の家族や身近な人に起きていることとして、受け止められたのだろう。

あれから約10年経とうとしているが、今はさらに予想もしなかったほどに悪い方向へと進んでいる。現地の惨状がどれだけ生々しく伝えられても、私たちは一人の人を助けることすらできないのかと、どうしようもない無力感をもってニュースを見つめている。そんなとき、今日朝のNHKニュース「おはよう日本」で、長年、国連職員として、ガザ地区の子どもたちの支援に関わってきた清田(せいた)明宏さんが、あるパレスチナ人の若者の話を紹介してくれた。彼は、画家を目指していて、生き延びることができれば、今年、大学を卒業予定である。最近、同じように絵を描くことが好きだった親友を爆撃により失った。彼自身は助かったものの、これまで描いた作品や画材道具などすべてを失い、将来を考えられないどころか、明日生きているかどうかもわからない、と。清田さんは、「将来に向けて一生懸命頑張っている子どもたちが、ガザにはたくさんいるのに、こういう戦争で夢を失って、どうなるかわからないという状況は非常に悲しい」と声を詰まらせていた。

明日生きているかどうかは本当にわからない、と話すその若者の望むことは、ガザの現状を知ってほしい、ということ。「天井のない監獄」とも言われるガザに、これだけ多くの犠牲者が出なければ、世界が関心を向けてくれない、ニュースにもならない、ということは、もうなくなってほしい。まずは、私たち一人一人が、意識的に関心を持ち続けよう。私自身、今日の思いを忘れないように、見上げた空の写真を撮り、席を立った。

・「おはよう日本」の今朝のニュースは、現在、NHK プラスで配信中です。

https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2023102416035

・戦争については、以前のブログ「ごく普通の景色に隠れたもの」で、沖縄のことにふれています。あわせて読んでいただけたら、うれしいです。

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朝のマクドナルドで…

私鉄の駅から歩いて2分のところに住んでいたときのこと。駅前にマクドナルドがあり、そこで過ごす朝のひとときが、とても好きだったのを思い出す。駅に近いところに住んでいるのだから、すぐに電車に乗ればいいようなものなのに、わざわざ乗る電車の時刻の1時間前に家を出て、マクドナルドに行く。そこで約1時間、コーヒー1杯をお供に、その日の仕事の手順や1週間のスケジュールの確認などをして過ごす。そこのマクドナルドは、各席の周りに囲いがあり、半個室みたいな作りになっていて、それが居心地の良さの理由でもある。早朝の店内に人はほとんどいず、話し声は全くしない。飲み物のふたを開ける音や、朝のメニューであるマフィンの包装紙のカシャカシャという音、その他のかすかな音だけが、BGMと一緒に聞こえるだけだ。半個室みたいなので、スクラップした記事を整理したり、新聞紙を広げたり、思い思いの過ごし方を楽しむ人が多い。恐らく、ブログを書いている人もいただろう。

そんな時間帯にかかるBGMで、いいなと思う洋楽があることがある。しかし、誰の曲かわからない。今は、スマホで音楽を聴かせるだけで、楽曲名やアーティスト名を検索できるアプリなどあるが、その当時は、そのようなものはない(あるいは、単にあることを知らなかっただけかもしれないが)。そこで、そのとき私がやったことは、その音楽から流れてくる歌詞の英単語を聞き取り、ネットで検索する、というものだった。たいていの場合、ネットに歌詞がアップされているので、歌詞から曲名にたどり着くことができる。歌詞を聞き取るのは、まさにリスニングテストのようで、うまくいくときは曲名を一発で探し当てることができるのだが、一般的な表現の英単語しか聞き取れないと、たくさん検索結果が出てきてしまい、曲探しは困難を極める。

この方法でもわからないときは、どうするか。ネットでいろいろと調べていたら、マクドナルドにBGMについて問い合わせると、教えてくれるという記事を見つけ、私もやってみた。知りたい曲がかかっていた店舗と時間帯を明記してメールで問い合わせる。すると、すぐに返信が来て、20曲くらいの曲目リストと、それがかかっていた時間帯が秒単位で細かく記載されたものが送られてきた。しかし、その中に探している曲はなかった。そこで、「別の〇店でもかかっていた、ここでは〇の時間帯でかかっていた」と再度、問い合わせると、今度は、その時間帯のみでなく、1日の100曲くらいのリストが送られてきて、びっくりしてしまった。1曲ずつ確認するのも大変だったが、その中に、探していた曲はあった。

以前、冬に深夜バスで大阪まで行ったとき、着いたのは、まだ夜明け前だった。寒くてどこで時間をつぶそうかと困っていると、マクドナルドの黄色いMが目に入った。周りは真っ暗なのに、そこだけ明かりがついていた。この「どこにでもある温かい場所」がマクドナルドなのかな、とそのとき思った。BGMなどという、飲食店にとっては、ある意味、二次的なものに対しても、手を抜かずに対応してくれることが、「どこにでもある温かい場所」を生み出すことにつながっているのだろう。

ところで、最後に、このブログを読んでくれているあなたに、私が私鉄の駅前のマクドナルドで、リスニングテストをして、なんとか探し当てた曲を贈りたいと思う。晴れた日の朝、仕事に行く前にこれを聞いたとき、そのソフトな曲調と歌声に、心癒されたのを覚えている。寝起きの体にすっと入っていく白湯のような、朝にぴったりの曲。あなたにとって、今日一日も穏やかな一日となりますように…。

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思いがけない旅のお土産

大雨の季節にいつも思いだす宿がある。温泉街の山の中腹にある宿。飛騨家具や間接照明の美しいロビーに、ドリンクサービスがある居心地のよい読書サロン。客室からは、飛騨の山と温泉街を流れる飛騨川が望める。檜の貸切露天風呂から見えた夜景は、忘れられないほど美しかった。

しかし、この宿の思い出は、これだけではない。その日は、とにかく天気の悪い日だった。夕方近くに宿に到着したが、空には黒い雲が広がり、今にも雨が降りそうだ。そんな天気の中、私たちは素泊まりで予約しており、外で夕食する予定だった。

フロントで、素泊まりでの宿泊予約の確認をした際に、この後、外に食べに行く予定であることを伝える。部屋に入り、少しくつろいでいると、部屋の電話が鳴った。フロントからだ。「この後、飛騨川が増水して氾濫する可能性があり危険なため、外に出ないように」と、市から各宿泊施設に連絡があったとのこと。宿の人は、私たちが外に食べに行くと言っていたことを覚えていてくれて、「今はまだ雨が降り始めていないので、近くのコンビニで食べ物を買ってきてはいかがでしょうか」と提案し、コンビニの場所まで教えてくれた。私たちは、急いで教えてもらったコンビニまで車を走らせ、帰ってきた。コンビニも川の近くにあるため、川が増水したら危険な場所だった。コンビニの袋を抱えて戻ってきた私たちを、宿の人は、あたかも家族が無事に帰ってきたかのように、ほっとした表情で迎えてくれた。

「おもてなし」という言葉があり、私の好きな言葉ではあるが、今回の体験はそれとは違うと、今になって思う。「おもてなし」は、たいていの場合、想定された状況での用意された心遣いではないだろうか。今回は、想定外の状況で、相手の立場に立ち、親身になって提案してくれた。これは、純粋な「親切」「やさしさ」だ。業務的な、宿泊施設として行う「おもてなし」ではなく、家族や親しい友だちに対して接するのと同じように、自然な心の流れで心配をし、私たちにとって最良であろうことを提案してくれた。夕食付きのプランで予約していない素泊まりでの客に対しても、ほかの宿泊客と分け隔てなく、あるいは、それどころか普通以上に、心を配ってくれた。このことが純粋に嬉しかった。

その後、案の定、大雨となったが、コンビニで買ってきた夕食らしい食べ物を楽しむことができた。1泊のみの宿泊だったが、この宿での一番のお土産は、客室から見えた飛騨の山々や飛騨川、貸切露天風呂から見えた美しい夜景などではなく、宿の人の温かい心遣いだ。下呂市で大雨があることをニュースなどで知るたびに、この旅を思い出す。何年経っても大切にしたいお土産だ。

飛騨路・下呂温泉 湯遊びの宿 下呂観光ホテル本館(岐阜県

 

旅先で出会うカフェ ②

本宮カフェ(栃木県)

日光の東照宮は、観光スポットとして人気の場所だが、そこに行くときに立ち寄りたいカフェが、東照宮に行く途中に見られる美しい朱塗りの橋(神橋)の近くにある。築300年の古民家を改装した建物。周囲の緑に包まれて、とても癒される雰囲気だ。テラス席でお茶する。かわいいラテアートの抹茶ラテは、その緑色が、周囲の木々の色とマッチして、いい感じだ。風が吹くと木々の音が涼しげに聞こえる。下の道を歩く人々が、テラス席を見上げて、にっこりする。まだ目的地の東照宮に行く途中なのに、まったりと長居したくなるような場所だ。

 

daigo cafe(茨城県

古民家カフェと言えば、以前のブログ記事「涼を求めて②」でも少しだけふれた茨城県大子町のカフェが思い出される。人通りの多くない通りの角にあるが、店内の雰囲気はもちろんのこと、外観も素敵だ。私が訪れたときは、ちょうど中でくつろいでいるときに、雷雨があった。向かいの窓から、軒先を激しく落ちる雨が見える。屋根にたたきつけるような雨音。しかし、なぜか不安な気持ちにならなかった。古い建物であっても、守られている、という我が家のような安心感。雨が上がり、外に出てみる。すでに日が差してきていた。しっとりと濡れた通りや古い建物も風情があっていい。ゆったりと静かな時間が流れるカフェ。また帰ってきたくなる場所だ。

古民家カフェは、私が好きなテレビ番組である「人生の楽園」(テレビ朝日、毎週土曜日、18時放送)に多く登場する。こういったカフェとの出会いがあったときに、ここでまたふれていきたい。

旅先で出会うカフェ ①

和茶房うの(千葉県)

カフェは、人が出会う場所だが、カフェとの出会いもある。これまで旅先で立ち寄って印象に残っているいくつかのカフェがある。

最初は、千葉県の香取神宮の参道にあるカフェ。レトロでかわいらしい雰囲気の外観にひかれて、中に入った。すると、外観と同じように、中にもいろいろな雑貨が飾られていて、どこに座るか、迷ってしまう。座る場所によって、置かれている雑貨もさまざまで、「景色」が違う。雑貨好きの私は、すべての席に座りたくなってしまうほどだ。ここには、冬の朝に訪れたが、人があまりいない店内に日差しが差し込み、美味しいお団子と抹茶で、心も体もぽかぽかになった。

音楽と珈琲の店 岬(千葉県)

千葉県で印象に残っているカフェをもう一つ。今度は、目の前が海!というカフェ。その店名にある通り、明鐘岬の先端に立つ、映画のモデルにもなったカフェだ。海がすぐ近く、ということで立ち寄ったが、ここのカフェの魅力はそれだけではない。テラス席で海を眺めながら飲み物をいただいたのだが、店内からジャズの音楽が聞こえてくる。ジャズというと、「夜」「バー」「室内」といった印象だが、日中に屋外で海を見ながらジャズを聴く、というのが、とても新鮮な感覚だった。海とジャズ。この組み合わせは、格別だった。

シーバーズカフェ(茨城県

目の前が海、というカフェは茨城県にもある。ここは、日立駅の構内にある。え?駅の構内にあるのに海が見えるの?って思うかもしれない。これは、海に向かって突き出たガラス張りの駅舎ならではの景色だ。都会の駅の構内にあるカフェとは全く雰囲気が違う。平日の朝、開店してすぐ入ったので、人はまばらだった。しばらくして、数名のビジネスマンが、朝の打ち合わせにやってきた。こんな景色を見ながら議論したら、いいアイディアも出てくるんじゃないだろうか。海だけでなく、海沿いの日立バイバスを行く車が、きらきらと日の光を浴びて走っていくのが見える。駅にいることを忘れさせてしまうようなカフェだ。

※海が見える駅として知られる日立駅は、日の出スポットでもある。日立駅については、前回のブログ(1枚の絵のような風景)で取り上げているので、あわせて読んでいただけたら嬉しいです。

 

 

1枚の絵のような風景

ある夏の早朝4時過ぎ。駅前のホテルを出て、駅へと急ぐ。ずっと行ってみたかったその場所は、すぐそこにあった。早朝だというのに、すでに数名の人が待っている。あと15分くらいで見ることができるであろう日の出を。右端で、椅子に腰かけてうなだれている青年がいた。かなり眠そうだ。きっと夜をここで過ごして、日の出を一番乗りで見ようとしたのだろう。

日の出の時刻が近づき、人が少しずつ増えてくる。ここは、知る人ぞ知る日の出スポットなのだ。しかし、日の出の時刻になっても、厚い雲が邪魔をして、太陽は一向に顔を出さない。そして、日の出を誰よりも待ちわびていたであろう青年は、日の出の方向に背を向けたまま見向きもしない。カメラ片手に興奮気味に日の出を待つ人々を、興味なさそうな目でちらっと見ては、またうなだれていた。あれ、日の出を見に来たのではなかったのか。

太陽が上がってくるとともに、雲も上がる。日の出の時刻から30分ほど経過した頃、諦めて去る人がちらりほらり。それでも、雲のわずかな隙間から顔をのぞかせている光に望みを託して、辛抱強く待つ。そして、やっとその時が来た。ようやく強烈な夏の日の光が雲の上から出てきて、ガラス張りのその場所を光で包み込んだ。ガラスに光が反射して、美術館の外観のような空間。そして、そこにあるシンプルだけどおしゃれなフォルムの椅子は、ガラス越しに見えるきらきらと輝く海を、絵画のように鑑賞するのにうってつけだ。

日の出を諦めた人、見て満足した人が去っていった。そして、そこにはまた青年だけになった。彼はいったい何を待っているのだろう。うなだれる青年の背中に日の光が強く当たっている。ここでは、片隅にいようが、容赦なく日の光が当たる。夏の強い日の光の熱さを、彼は背中で感じているだろうに、それでも、彼は振り向くことすらしない。そんな彼に、太陽はきっと語りかけているだろう。「さあ、顔を上げて。私が背中を押してあげているから」。

日立駅茨城県