小さな花たち

旅先や日々の生活で見過ごされそうなひとときを、思いのままに綴ります

「春」よ、来い。

しばらくブログを更新できなかった。忙しかった、と言えば、うそではないけれど、自分のブログで紡ぐべき言葉が出てこなかった、と言えば、より真実に近いかもしれない。そういう言葉が出てくるのを待っていて、今になってしまった…。そんなときでも、ほかの方の更新されたブログを読むと、力をもらえたりした。

年明け早々の大きな災害、その次の日に衝突事故。災害の起きた地域は、私の同僚の故郷でもある。また、私の周りでは、離婚に向けて動き出した人や婚約破棄を決めた人、20年近く一緒だった愛猫を亡くし、ペットロスの状態になっている人も。私自身も、新年早々にこれまで経験したことのない身体の異変があり、かかったこともない病院の科を受診した。幸いなことに問題はなかったが、よかった!と喜ぶ気分ではなかった。待合室には多くの人がいて、治療のために来ている人もいただろう。

どうして2024年という年は、まだ1カ月も経っていないのに、こんなに気持ちが落ち込むようなことばかりあるんだろう…と思って、ふと考えた。自分はたまたま、今、戦争のない国に住み、元日には災害が起きなかった場所にいて、こうしてブログを書ける日常を送っていられるけれど、日本、さらに世界に目を移せば、戦争や災害、病気ほかさまざまな理由で命を落としたり、大切な人を亡くしたり、困難な状況に苦しむ人が一人もいない日など、これまで一日たりとも存在していない。『世界がもし100人の村だったら』という本があり、世界がこういう規模なら、毎日、全員が幸せでいることも可能だろうに、と思ったこともあったが、現実は、一人も苦しむことのない日など存在しないのだ…。

昨年末のある番組で、街ゆく人に、「今年、一番ついていたことは、何ですか?」と聞いていた。「〇〇が当たりました!」というような回答もあったが、一番印象に残ったのは、70代の女性の回答だった。その女性は同世代の友達と買い物に来ていたのだが、「今日、たまたま入ったお店の食事がとても美味しかったこと。私たちの年代になると、こういう小さなことでも幸せ~って感じるのよ」というようなことを話していた。

考え方一つで、もっと幸せになれるような気がした。今、日本で一番困難な状況にある能登の被災地でも、同じように前向きな言葉を、テレビのニュースを通して聞くことができた。中でも印象に残っているのが、ある工房で働いていた人の言葉。「道具もすべて失ってしまったけれど、幸い、ここで働いていた人は全員無事だった。人が残っているので、また今までのようになんとかやっていくことができると思う」(注:このようなことを話されていた、という意味で、この通りの表現で話していたわけではありません)。

人生100年時代というけれど、寿命が延びれば、それだけ苦難が多くなる可能性もある。それでもやっぱり命ある限り、希望は持てる。それぞれの人にとっての「春」は、訪れる時期が違うけれど、誰にでもいつか必ず春がやってくると信じたい。今、この瞬間にも、物理的・身体的・精神的に困難な状況にある人が、生きる力、生きる希望を得られますように、と祈りながら…。

 

※このブログを読んでくださり、ありがとうございます。こんな更新頻度で恐縮ですが、またよかったら、このブログに立ち寄っていただけたら幸いです。