小さな花たち

旅先や日々の生活で見過ごされそうなひとときを、思いのままに綴ります

思いがけない旅のお土産

大雨の季節にいつも思いだす宿がある。温泉街の山の中腹にある宿。飛騨家具や間接照明の美しいロビーに、ドリンクサービスがある居心地のよい読書サロン。客室からは、飛騨の山と温泉街を流れる飛騨川が望める。檜の貸切露天風呂から見えた夜景は、忘れられないほど美しかった。

しかし、この宿の思い出は、これだけではない。その日は、とにかく天気の悪い日だった。夕方近くに宿に到着したが、空には黒い雲が広がり、今にも雨が降りそうだ。そんな天気の中、私たちは素泊まりで予約しており、外で夕食する予定だった。

フロントで、素泊まりでの宿泊予約の確認をした際に、この後、外に食べに行く予定であることを伝える。部屋に入り、少しくつろいでいると、部屋の電話が鳴った。フロントからだ。「この後、飛騨川が増水して氾濫する可能性があり危険なため、外に出ないように」と、市から各宿泊施設に連絡があったとのこと。宿の人は、私たちが外に食べに行くと言っていたことを覚えていてくれて、「今はまだ雨が降り始めていないので、近くのコンビニで食べ物を買ってきてはいかがでしょうか」と提案し、コンビニの場所まで教えてくれた。私たちは、急いで教えてもらったコンビニまで車を走らせ、帰ってきた。コンビニも川の近くにあるため、川が増水したら危険な場所だった。コンビニの袋を抱えて戻ってきた私たちを、宿の人は、あたかも家族が無事に帰ってきたかのように、ほっとした表情で迎えてくれた。

「おもてなし」という言葉があり、私の好きな言葉ではあるが、今回の体験はそれとは違うと、今になって思う。「おもてなし」は、たいていの場合、想定された状況での用意された心遣いではないだろうか。今回は、想定外の状況で、相手の立場に立ち、親身になって提案してくれた。これは、純粋な「親切」「やさしさ」だ。業務的な、宿泊施設として行う「おもてなし」ではなく、家族や親しい友だちに対して接するのと同じように、自然な心の流れで心配をし、私たちにとって最良であろうことを提案してくれた。夕食付きのプランで予約していない素泊まりでの客に対しても、ほかの宿泊客と分け隔てなく、あるいは、それどころか普通以上に、心を配ってくれた。このことが純粋に嬉しかった。

その後、案の定、大雨となったが、コンビニで買ってきた夕食らしい食べ物を楽しむことができた。1泊のみの宿泊だったが、この宿での一番のお土産は、客室から見えた飛騨の山々や飛騨川、貸切露天風呂から見えた美しい夜景などではなく、宿の人の温かい心遣いだ。下呂市で大雨があることをニュースなどで知るたびに、この旅を思い出す。何年経っても大切にしたいお土産だ。

飛騨路・下呂温泉 湯遊びの宿 下呂観光ホテル本館(岐阜県