小さな花たち

旅先や日々の生活で見過ごされそうなひとときを、思いのままに綴ります

『孤独のグルメ』に癒された孤独な夜の時間

当時の私は、起きている時間のほとんどを仕事に費やすような生活を送っていた。唯一の楽しみは、週一度の趣味で習っていたダンスのレッスンだったが、その週1回の数時間ですら、仕事で消えてしまうこともあった。着替えやシューズなどレッスン用の支度をして大きなバッグを持って会社に行っても、会社を出なければいけない時間までに仕事が片付かない。結局、レッスンに行くのを諦め、どうせ行かないのならと、夜10時過ぎまで仕事をしたりする。そんなときの帰り道は、会社から駅までの歩いて15分の道のりが異常に長く、重さが変わっていないバッグも、重くて肩こりになりそうなほどだった。

私の家の最寄り駅まで電車でたったの2駅。会社から最寄り駅まで歩いて15分かかるのに、家までは30分以内で帰ることができた。そこで立ち寄るのが、駅前の24時間営業のSEIYUである。夜遅い食料品売り場に人影はなく、ほとんど貸切状態だ。ここのSEIYUでは、なぜか私の好きな80年代の音楽がよく流れている。当時大ヒットした、リック・アストリーのギヴ・ユー・アップなどが流れていようものなら、ここぞとばかりにストレスを発散させるべく、半ば踊りながら買い物したりした。

そんな感じで少し気分が盛り上がっても、当時、独身で一人暮らしだった私を待つのは、真っ暗な部屋だけ。周りがもう寝静まっている時間に、買ってきたお弁当と、夜食べるには不健康な甘いデザート。深夜近くにマンションの1部屋だけこうこうと明かりがついているのは不用心なので、いつも間接照明のみで食事をしていた。食事のお供はテレビ。あるとき、無意識のうちにチャンネルを変えて、目に留まったドラマが、『孤独のグルメ』だった。

初めて見たときは、主人公の五郎さんが何かを食べているところで、食事のシーンか、と、ドラマの次の展開を待ちながら見ていた。しかし、いつまで経ってもストーリーが先に進まない。ずっと食べ続けているだけなのだ。最初から最後まで食べる過程をすべて見せるドラマなど、退屈でしょうがないはずなのに、なぜかチャンネルを変えることができない。普通のドラマとは違う展開と、その美味しそうな食べっぷりに、思わず見入ってしまっていた。そして何より面白いのは、一口食べるごとに、心の声でなされる食リポ。その卓越した、思いがけない表現に、思わず顔がゆるんでしまう。

例えば、ジャンボギョーザを注文して、テーブルに出されたときの心の声。

 

(ジャンボと言うより、ぽっちゃり)

 

一口食べて、また心の声。

 

(うん、なるほど。食堂のギョーザだ。中華の道と、通(とお)ってきた道が違う味だ)

 

また、別の日に、貝や野菜の入った地中海料理のスープに、パンをつけて食べているときの心の声。

 

(今、俺の中は、夏のパン祭りだ)

 

その落ち着いた心の声が主役のドラマは、寝静まったマンションで見るにはうるさくなく、非常に好都合だったし、疲れた体にも心地よかった。ドラマ全体を通してどこかレトロな雰囲気の撮影の仕方やのんきな(?)BGMもいい。仕事で疲れ切って一人でとる夕食の時間に、一人で孤独に食べている五郎さんを見る。しかし、このドラマでの「孤独」のイメージは、私が感じるような寂しい孤独感ではない。

五郎さんは、確かに一人孤独に食べている。ドラマに登場するほかのお客さんは、たいてい誰かと一緒だったり、楽しそうにわいわい話をしたりしている。五郎さんはいつも一人だ。心の中は夏のパン祭りでも、一人で黙々と食べている。しかし、ドラマを見ている人には、孤独に見えない。なぜなら五郎さんは、孤独でなければ、料理を味わい尽くすのは難しいからだ。日常の食事のときに、一口食べるごとにコメントしたり、心の中で感想を述べたりするようなことは、ほとんどしないだろう。誰かと一緒に話しながら食事をし、話で盛り上がったりすれば、料理の味すらよくわからなかったりする。五郎さんは、孤独にすべての感覚を研ぎ澄ませて食事をすることで、料理を口に入れるごとに、何かしらの思いを抱く。自分なりに、この料理とこの料理をミックスして食べたらおいしいのではないか、などと考えてアレンジして食べてみたり、時には周囲の人が食べているものを観察して、追加注文したりする。

「食べる」ということに全神経を集中させるには、孤独である必要があるのだ。でも、この孤独は、私が一人の夕食のときに感じる孤独のような寂しいものではない。五郎さんは、むしろこの孤独を楽しんでいる。孤独であるからこそ、食べ物と真剣に向き合い、対話をし、すべての感覚を使って味わい尽くす。私は、食べ終わった後に五郎さんが発する「ごちそうさまでした」が好きだ。これ以上、味わい尽くすことがないほど充実した時間を過ごした後の「ごちそうさま」には、本当に心からの気持ちが込められている。

孤独のグルメ』を見終わった後は、私も「孤独」から解き放たれ、五郎さんと同じようなグルメを味わったかのような、お腹も心も満たされた気分になる。深夜に見るこの番組は、明日への活力をくれた。

今は、年末年始に一挙放送されるこのドラマを見るのが楽しみになっている。しかし、年末の大掃除で忙しく動き回っているときに、たまたまテレビをつけてこのドラマを発見してしまうのは危険だ。もはや何も手につかなくなるからだ…。

 

「春」よ、来い。

しばらくブログを更新できなかった。忙しかった、と言えば、うそではないけれど、自分のブログで紡ぐべき言葉が出てこなかった、と言えば、より真実に近いかもしれない。そういう言葉が出てくるのを待っていて、今になってしまった…。そんなときでも、ほかの方の更新されたブログを読むと、力をもらえたりした。

年明け早々の大きな災害、その次の日に衝突事故。災害の起きた地域は、私の同僚の故郷でもある。また、私の周りでは、離婚に向けて動き出した人や婚約破棄を決めた人、20年近く一緒だった愛猫を亡くし、ペットロスの状態になっている人も。私自身も、新年早々にこれまで経験したことのない身体の異変があり、かかったこともない病院の科を受診した。幸いなことに問題はなかったが、よかった!と喜ぶ気分ではなかった。待合室には多くの人がいて、治療のために来ている人もいただろう。

どうして2024年という年は、まだ1カ月も経っていないのに、こんなに気持ちが落ち込むようなことばかりあるんだろう…と思って、ふと考えた。自分はたまたま、今、戦争のない国に住み、元日には災害が起きなかった場所にいて、こうしてブログを書ける日常を送っていられるけれど、日本、さらに世界に目を移せば、戦争や災害、病気ほかさまざまな理由で命を落としたり、大切な人を亡くしたり、困難な状況に苦しむ人が一人もいない日など、これまで一日たりとも存在していない。『世界がもし100人の村だったら』という本があり、世界がこういう規模なら、毎日、全員が幸せでいることも可能だろうに、と思ったこともあったが、現実は、一人も苦しむことのない日など存在しないのだ…。

昨年末のある番組で、街ゆく人に、「今年、一番ついていたことは、何ですか?」と聞いていた。「〇〇が当たりました!」というような回答もあったが、一番印象に残ったのは、70代の女性の回答だった。その女性は同世代の友達と買い物に来ていたのだが、「今日、たまたま入ったお店の食事がとても美味しかったこと。私たちの年代になると、こういう小さなことでも幸せ~って感じるのよ」というようなことを話していた。

考え方一つで、もっと幸せになれるような気がした。今、日本で一番困難な状況にある能登の被災地でも、同じように前向きな言葉を、テレビのニュースを通して聞くことができた。中でも印象に残っているのが、ある工房で働いていた人の言葉。「道具もすべて失ってしまったけれど、幸い、ここで働いていた人は全員無事だった。人が残っているので、また今までのようになんとかやっていくことができると思う」(注:このようなことを話されていた、という意味で、この通りの表現で話していたわけではありません)。

人生100年時代というけれど、寿命が延びれば、それだけ苦難が多くなる可能性もある。それでもやっぱり命ある限り、希望は持てる。それぞれの人にとっての「春」は、訪れる時期が違うけれど、誰にでもいつか必ず春がやってくると信じたい。今、この瞬間にも、物理的・身体的・精神的に困難な状況にある人が、生きる力、生きる希望を得られますように、と祈りながら…。

 

※このブログを読んでくださり、ありがとうございます。こんな更新頻度で恐縮ですが、またよかったら、このブログに立ち寄っていただけたら幸いです。

マクドナルドの冬の朝のBGMから

以前、このブログで、マクドナルドの朝の時間帯のBGMについて書いたことがある(下にリンクあり)。つい最近、また朝の時間帯にマクドナルドで流れていた洋楽の曲が気になり、調べてみた。以前は、音楽検索アプリの存在を知らずに、聞こえてくる英単語を聞き取り、ネットで検索して曲名にたどりつくか、マクドナルドのお客様センターに問い合わせたりしたが、今回はすぐにスマホのアプリを立ち上げて、一瞬にして曲名を知ることができた。

Winter Is the Warmest Season. (冬は、一番暖かい季節) The Legends

以前はすごく苦労して曲名までたどりついたのに、今は一瞬にして曲名がわかることに感動したが、それ以上に、この曲名の持つ新鮮な意味に驚きがあり、何か素敵なものを発見したときのような気持ちになった。私は人一倍寒がりで、冬はどう考えても、心身ともにWinter is the coldest season.(冬は一番寒い季節)なのだ(当然、こんな表現は、曲名にはなり得ないだろうけれど)。そこで、「冬が一番暖かいのだ!」と言い切ってしまう、この曲名の意味を知りたくて、歌詞を聞き取ろうとしたが何度聞いてもよく聞き取れない。ネット検索したが、やはり出てこない。

そこで自分なりに解釈することにした。例えば、私は冬が嫌いなのに、白川郷の雪景色が好き。雪で覆われた景色そのものが美しいだけでなく、その真っ白い景色の中に点在する家々に、ぽっ、ぽっと灯りがともっているところに、なんとも言えない暖かさを感じるから。以前書いたマクドナルドのBGMについてのブログでは、冬の夜明け前、まだどこのお店も開いていないときに、マクドナルドの黄色いMだけが光っていたのがとても暖かく感じたことにふれた。シチューのテレビCMに温かな雰囲気があるのは、寒い冬だからこそ、家族が集う家の中で食べるシチューが、とりわけおいしく思えるからだろう。こういった冬ならではの暖かさがあるのは確かだ。

Winter is the warmest season. とネット検索したときに、探していた曲とは別に、同じタイトルの絵本(Lauren Stringer作)が、検索結果に出てきた。その絵本の説明にも、同じような内容が記されていた。「たいていの人は夏が一番暖かい季節だと思っている。しかしこの絵本には、暖炉の火やチーズサンド、フランネル生地のパジャマなど、冬が一番暖かい!というものであふれている。少年とその家族の一日を、温かい朝食、湯気の立つ午後のココア、寝る前の華やかなキャンドル・パーティーなどで描いている。この本は、冬を1年で一番居心地のいい季節にしてくれる素晴らしいものすべてにふれている」(Amazon サイトの紹介文から抜粋して翻訳)。

(出典:Amazon | Winter Is the Warmest Season: A Winter and Holiday Book for Kids | Stringer, Lauren, Stringer, Lauren | Personal Hygiene )

Lauren Stringerのサイトのこの絵本ページでは、暖かいイメージのイラストが掲載されている。

www.laurenstringer.com

こういった暖かさに加えて、見知らぬ人からもらった親切にいつも以上に心温まる季節が、冬であるように感じる。例えば、よく目にする光景で、私自身経験したことがあるのは、通勤時に急いで歩いていて、定期券のような大切なものをポケットから落としてしまったとき。遠くから、落としましたよ~、と駆け寄って届けてくれる人がいる。その人の進む方向とは逆方向なのにもかかわらず…。物理的に寒く、また、荒涼とした風景に心寂しい気持ちにもなる冬だからこそ、こんな風に見知らぬ人からちょっとした親切をもらうと、心に灯りがともるような気持ちになる。やっぱり冬が一番暖かい季節なんだろう。

ところで、マクドナルドのBGMで流れていた曲を実際に聞くと、上で挙げたようなイメージとは少し異なる雰囲気に感じられるかもしれない。スウェーデンのアーティストによる楽曲ということもあり、北欧の美しい湖を想像させるような透明感のある曲。マクドナルドでは朝の時間帯にこの曲が流れていて、冬の朝の澄み渡った空にぴったり合い、すがすがしい気持ちになった(さすが、マクドナルドBGM選曲チーム!?)。夏に聞いてもいいような爽やかさだが、夏に流れていたら多分そのまま聞き流していただろう。この透明感のある曲を冬に聞くときの斬新な感覚は、冬は一番暖かい、という曲名を知ったときと同じような感じ。それほど爽やかな曲なのに、冬に聞いても寒々しくなく、温かな気持ちになれる、不思議な曲だ。

下の写真は、以前住んでいたマンションのお気に入りの出窓に適当に花を飾ったときのもので、わざわざブログにアップするような写真ではないのだが、なぜか私の中ではこの曲のイメージに合うような気がして選んでみた。このブログを読んでくれているあなたには、どんなイメージの景色が浮かぶでしょうか。リンクを入れておきましたので、よかったらぜひ聞いてみてください。今日も、あなたにとって、この曲のように爽やかで、暖かな一日となりますように。

youtu.be

 

smallflowers.hatenablog.com

夕刻の城

夕暮れ時に、小田原駅からお堀端通りを通ってお城まで行った。たまたま近くに来る用事があったので、かなり昔、訪れたことのあるこのお城に来てみたかったのだ。もう日も沈んでしまい、辺りは薄暗い時間帯。すでに閉館してしまっている時刻だが、夕暮れ時にお堀端通りを散策するのは、風情があっていい。

城址公園のお堀にかかる赤い橋に多くの鳥が集まっていた。橋や橋を渡ったところにある二の丸広場には、まだ人通りがあり、散歩をしている人の姿も。何年ぶりかでこのお城を間近で見たが、まず感じたことが、こんなに小さかったかな、ということだ。ずっと来ていなかったから、記憶があいまいでそう思えたのかもしれない。ただ、よく考えてみて、その理由がなんとなくわかった気がした。

これまでこの城以外にもいろいろなお城を訪れたが、いつも日中の時間帯に、わざわざお城を見に行くために足を運んできた。今回のように、閉館時間を過ぎて薄暗くなってから、たまたま立ち寄る、というのは初めてだ。日中、青い空を背景に、日の光を浴びて光り輝くお城を見ると、その迫力に近寄りがたい印象すらある。しかし、薄暗いところでひっそり佇む城は、そういった雰囲気ではない。薄暗さの中で、風景やほかの建物と一体化している。とりわけこのお城は、山の上やアクセスが困難な場所に建てられているわけではなく、人が行き交う通りから入ることができる。こういったことから、この城がより近い存在に感じられ、小さく見えてしまったのではないか。

近寄りがたく、別の時代の建造物としてお城を見る、というのとは違う、現代の建物や生活に溶け込んだ一つの建物として見てみると、夕方にお城の広場を散歩している人と同じ気分になれる。歴史的建造物に日常的にふれられる生活-憧れである。しばし地元の人と同じ感覚で、城とお堀端通りが演出する夕暮れ時の特別な時間を楽しんだ。

小田原城(神奈川県)

 

紅葉の「フォトスポット」?

ずっと行きたいと思っていた紅葉スポットの渓谷が、あるサイトで「今見頃」となっていたので行ってきた。そういった情報をもとに見に来た人もいたのだろう、平日なのに駐車場は混んでいた。ネットやテレビでよく目にした、渓流にかかる真っ赤に染まった橋を見るのが待ちきれず、その橋を目指して足早に歩く。20分ほど歩くと目的の橋が木々の間から見えてきたが、少し不安な気持ちになった。あれ、あの真っ赤な紅葉シーンがなさそう…。周囲の木々は、赤いどころか、まだ緑色だったり枯れているものもあり、いずれにしても、紅葉の見頃とは程遠い状態だった。橋まで到着したが、嫌な予感は的中した。そこに想像していたものはなく、違う場所に間違ってきてしまったかのような感覚すらあった。来ていた人も所在なさげにうろうろと橋の上を行ったり来たりしている。1か所だけきれいに色づいている木があり、そこにだけ人が集まる、なんて状態だった。

例えば、日の出スポットなら、今は曇っていても少し待てば、望み通りの光景に出会える可能性はあるが、紅葉については、ここで待っていてもすぐに色づくわけではない。とにかくまだ見頃ではないと諦め、これ以上ここにいても寒いだけだからと、来た道を帰る。帰り道、15人くらいのツアー客のグループとすれ違った。彼らも皆、あの真っ赤に染まる橋を思い描きながら、今、歩いているのだろう。あの景色を見たら、どう反応するだろうか、引率者はどうフォローしたらいいのだろう、などと余計な心配をしたりする。

そんなことを考えながら歩いていると、行きには気づかなかった茂みの中に、見事な紅葉を見つけた。行きには、橋のことしか頭になかったから、ほとんど目もくれず気づきもしなかった場所に、橋のところよりもいい景色があった。ネットやテレビなどから得た情報で、この渓谷の紅葉と言えばあの橋、という印象が自分の中に根づいてしまっていたので、行きには橋を見ることが目的となっていたが、よく考えれば、渓谷全体が見頃なのであって、橋の上が見頃なわけではない。木を見て森を見ず、な感じだ。文字通りにすれば、橋を見て森を見ず、か…。上の写真は、この渓谷のフォトスポットである橋から撮影したのではなく、そこに行く途中の茂みの中、ほとんど誰にも目を止めてもらえず、ただひっそりと美しい景観を作り出している場所で撮ったものだ。

ちなみに、フォトスポットとして有名な橋の上から撮った写真は、以下の通りである。紅葉真っ盛りの写真と比較できるよう、別サイトのリンクも入れておく。下の写真の緑色の葉がまだたくさん残っている景色と、上の茂みの写真と、どちらが紅葉の見頃かは、一目瞭然だ。

2023年11月20日撮影。写真がやや傾いているのは、落胆のあまり、写真撮影にもやる気が出ていない表れか…

www.city.takahagi.ibaraki.jp

紅葉狩りに行くときに、どうしてもネットやテレビなどで取り上げられているフォトスポットとして有名な場所に注目しがちだ。でも、ほかにもあまり知られていない美しい場所がたくさんあるはず。今、有名なフォトスポットでも、最初から有名だったわけではない場所が多くある。身近なところにも見事な紅葉があるかもしれない。そんな自分だけの超穴場紅葉フォトスポットを開拓するのもまた、楽しい紅葉狩りだと思う。

※上の茂みで撮影した写真と同じ場所で撮ったショート動画をアップしました。写真よりも、紅葉の様子が伝わると思います。

youtube.com

花貫渓谷(茨城県

ちょっと不思議なアートの世界へ

紅葉が美しい季節になると、なぜかアートに触れたくなる、芸術の秋。今日は、最近、目にしたアートで、とりわけ印象に残っているものをいくつか…。

最初は、切り絵作家の柴田あゆみさんの作品。テレビ番組『徹子の部屋』に出演されていたのを見て、その作品の幻想的な美しさに目を奪われた。彼女の切り絵が独特なのは、何層にも連なる紙に切り込みを入れて一つの世界を作り出し、奥から光を当てることで、奥行きのある立体的な作品に仕上げていること。光が当たっていない部分には陰影が生まれ、光と影が作品を一層幻想的にする。何層にも連なった、あのずっと奥まで入っていきたい、あの風景の中に入り込みたい!などと思いながら見ていたら、彼女自身が、作品の中に入ってみたいという気持ちを持って創作しているのだとか。

手のひらサイズの小さな作品では、こんなところまで誰も見ないし、見えないだろう、という部分にも、人が生活している風景が切り出されているなど、小さな仕掛けがあったりする。表現されている世界は、森林や建物が立ち並ぶ様子など、現実に存在するものなのだが、光を当てることによって、とても幻想的で、温かで、神々しさすら感じられる。作品は、手のひらに乗ったり、瓶の中で表現されるような小さなものから、実際に中に入っていかれるような大きな舞台芸術まで。どの作品も、見ているだけで癒され、見飽きることがない。ずっと見ていたい、さらに、奥の一番明るいところまで入っていきたい、そんな気持ちになる作品だ。

(以下のサイトをクリックして、下にスクロールすると、幻想的な作品の数々が見られます)

www.kamigamino-mori.com

二つ目は、たまたまYouTubeで見たアート。1枚の絵が出来上がるまでの過程がすべてわかるのだが、とにかく目が離せない。絵の具の「点」が「面」になっていき、やがて景色が出現し、いつの間にか奥行きが生まれる。小道に木々や花々、そして人が描き出される。実際に筆を使って描いているのは、人くらいだ。ほかは、いろいろな道具を使って、1枚の絵が完成する。ほかにも、いろいろな風景のものがアップされているが、どれも描かれていく過程がとても面白く、動画を少し前に戻して、どこからどのようにしてその風景が生み出されたのかを再確認してしまったりするほどだ。絵の具の「点」から一つの風景が生み出されるプロセスを見つめていると、自分もその中に吸い込まれていくような感覚すら感じられる不思議な世界だ。

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最後は、私の知人で、立体アーティストの田村映二さんの紹介。鮮やかな色使いで、動物や人が描かれ、まるで絵本の世界のような、わくわくするイラスト。企業カレンダーやCDジャケット、書籍の表紙、パッケージ、ディスプレイなどさまざまな媒体で使われている。明日18日(土)から、東京の谷中(やなか)で展覧会を開催予定。以下に案内を入れさせていただきます。

youtu.be

・私の好きな美術館の一つである、「クレマチスの丘 ヴァンジ彫刻庭園美術館」について、以下のブログで取り上げています。よろしければ、あわせて読んでいただけたらうれしいです。

smallflowers.hatenablog.com

 

 

自分仕様の世界は幸せ?

この写真は、Google フォトが、昨年11月のベスト写真として選んだものの1枚。なんとなくわからなくもないが、ベスト写真としての選定基準がよくわからず…。それに、Googleに選ばれてもあまり嬉しくもないかな…。

とりわけコロナ後のテレワーク中心の生活で、ネットを使用する頻度が激増しているのだが、最近、なんでもこういった選択や提案が勝手に行われることが多いような気がしている。パソコンを立ち上げれば、美しい海外の風景の写真が表示され、「気に入りましたか?」と聞かれる。気に入った、と回答すると、以降、同じような写真ばかり出てくるようになる。Googleでいろいろなことを検索したり閲覧しているうちに、頻繁に検索していたテーマの記事がトップに出てくるようになる。このブログで、以前泊まった宿について紹介する際に、正式名称を調べるべくその宿のホームページを閲覧したら、早速、旅行予約サイトから、その宿の割引情報のメールが送られてきた。

こういったことを便利で、効率的で、快適に思っていたが、最近、これでいいのか?と思うようになった。きっかけは、このブログを始めたことだ。グループを選ぶとき、「雑談」「日記」というグループを選んだ。なんでもありで、とりあえず問題なさそうだ、と考えたからだったが、これは私にとって最良の選択であったと思う。

ブログは、それを書いている人の世界が広がっている場所だ。とりわけ、「雑談」「日記」グループでは、ありとあらゆる世界が広がっていて、色とりどりである。こういったブログを読むのは、さまざまな物が見つかる雑貨屋さんが立ち並ぶ通りを散策しているかのよう。私は雑貨屋巡りが好きなのだが、それは、何が置いてあるかわからないワクワク感と、思いがけず気に入った物を見つけたときの嬉しい気持ちが得られるからだ。

「雑談」「日記」グループのブログは、まさにそんな感じである。入口のドアはいつも開かれていて、入った瞬間に、そこに一つの世界が広がっている。外に出て、別のお店に入れば、また全く別の世界がそこにある。こんなテーマでブログを書くこともできるのか!とか、こういう書き方もあるんだ~とか、テーマや雰囲気、書き方などあらゆるものが多種多様で、とても刺激的だ。

そこで、これまでの自分が、いかに自分仕様の情報にばかり囲まれていたかに気づく。いつも触れているのは、自分の興味関心に合うこと、自分が好きなテーマばかり。テレワーク中心でいろいろな人と意見交換することも少なくなってしまった。以前よりもネット中心の生活で、検索するときは、すでに自ら検索ワードを設定していて、その情報のみを受け取る。上にも記したように、希望しなくとも、ネット上で自分仕様の情報が優先的に送られてくるので、いつの間にかそういった情報だけに触れている。「多様性」という言葉がよく聞かれるようになったが、そういった自分仕様のパーソナライズされた世界だけで生きていると、どんどん視野が狭くなり、それ以外のものを受け入れにくくなるのではないか、多様な物事に対して、開かれた心を持てなくなってしまうのではないか、と思うようになった。

「雑談」「日記」グループのブログは、多様性の宝庫である。自分のブログにスターをつけてくれた人のブログが、自分のブログとは全く違う雰囲気のものであるときは、とりわけ感動する。こんなにも、自分とは違う世界を持っている人が共感してくれたのか~、と。多様なブログを読んで共感し、スターをつけるという行為自体が、多様性に対して開かれた心を持つことの訓練にもなり得るのではないだろうか。

パーソナライズされた、自分仕様の空間や世界は、確かに居心地がいい。ただ、時にはあえて全く自分仕様ではない世界に自ら飛び込んでいくことで、いろいろな刺激や視点が得られる。そこから自分の世界は無限大に広がっていくし、それ自体がワクワクすることでもある。「雑談」「日記」ブログの数々は、そういった機会をたくさん与えてくれる。

ということで、今日のブログもこの辺で終わりにして、朝の「雑貨屋さん散策」に行ってきます♪