小さな花たち

旅先や日々の生活で見過ごされそうなひとときを、思いのままに綴ります

「私」だけが歩いてきた道

少し前のテレビ番組で、芸能人が小学校や中学校までの通学路を制服を着て歩きながら、当時を回想する、という企画があった。自分には馴染みのない通学路にもかかわらず、私はなぜかその企画が好きだった。当時、いじめられっ子だったOさんが、帰り道にいじめられながらも、帰宅すると笑顔を見せて、親に心配をかけないようにしていた、といったエピソードには、涙が出た。通学路から学校までの道のりは、同じ学校に通っていたみんなが、ほとんど同じ道を歩いたけれど、思い出は、それぞれに違う。

通学路と言えば、私には、悲しいことに母校が一つも存在しない。いや、厳密に言えば、実際に通った母校が物理的に存在しない、ということである。小学校は、卒業してまもなくして、福祉施設になってしまった。その後、通った中・高一貫校は、卒業後、改築されたのだが、部分的な改築などではなく、正門から中庭まで跡形もなく変えられてしまい、もはや全く別の学校だ。大学は歴史のある大学だったが、こちらもなぜか私の卒業のタイミングに移転の話があり、その後、数年後には、自治体も異なるような、はるかかなたに移転した。もちろん校舎も全く違った様相を呈していて、これまた全く別の学校になってしまった。

私はどうして母校の校舎というものに、こんなにも恵まれていないのだろう。通学路を歩いて行った先にあるのは、更地だったり知らない建物だったりする。それでも、通学路は、やはり懐かしい。道沿いの家々やお店などは変わっていても、当時歩いた坂道や交差点などは、そのままそこにある。友だちやクラスメートみんなで、同じ道を一緒に歩いたなあ、でもその後は、みんな、それぞれの道に進んでいくものなんだなあ…。

そこで、「道」というものについて、少し考えてみた。

小学校などの通学路から、就職して通勤で歩いた道など、今まで毎日歩いてきた、いろいろな道のりを、すべて頭の中でつなげてみる。そうすると、世界でたった一つの自分だけの道が出来上がる。道は、生きている限り未完成で、自分の道は、自分で作っていくことができるし、途中で寄り道したり、休憩したりすることができる。ただ、一つだけ、できないことがある。それは、今まで来た道を引き返すこと。

しかし、引き返せない代わりに、自分で道を作ることはできる。目の前に広がる枝分かれした道の中に、いいな、と思う道がなければ、自分で作って歩いてみる。もし途中で、ああ、これは違う道だったかな、と思ったら、後戻りできない代わりに、枝分かれした別の道を通って、方向転換すればいい。少し遠回りをした感じだけれど、その途中で、ほかの人が見ることができない景色を見ることができただろう。

今、歩いている道がどこにつながっているのか、自分は何を目指して歩いているのか、たまにわからなくなることがある。そういうときに、今まで歩いてきた道(通学路や通勤に使った道)を、実際に歩いてみたり、頭の中で歩いてみる(私は、いつかGoogle Earthの中で歩いてみたことがある)。「人は食べたもので、できている」という言葉が私は好きなのだが、それと同じで、今ある自分を形作っているのは、これまで歩いてきた、唯一無二の自分だけの道。そう考えながら、その道を振り返ると、「おう、よく頑張って歩いてきたな」と、自分自身に声をかけてみたくなるだろう。

 

※最後までお読みいただき、ありがとうございます。かなり久しぶりの投稿になってしまいました。ここ数か月、誰かのために時間を費やすことで忙しく、自分自身を振り返る余裕がありませんでした。ブログは、少し空いた時間に自分に立ち戻るのに最適なツールかもしれません…。